日本家屋★長屋とは
長屋の歴史
江戸時代の町人の暮らしになくてはならないのが長屋でした。時代劇でも度々目にする町人の暮らしぶりは長屋で物語っています。1603年に幕藩体制が確立すると将軍や大名の主権により基本的には幕府と大名が所有していました。幕府の管轄では江戸や京都、大阪の都を支配して城下町が存在したのです。幕府が置かれた江戸の町では武士達が居住する土地が6割を占めて残りを町人やお寺の境内が占めていました。地主から土地を譲り受けて家屋を所有する家守や商人が長屋を建てて居住していました。しかし江戸時代の家屋は木材と紙で出来ていた為に火事が発生しやすく長屋などが密集していた為に火事と喧嘩は江戸の花と当時の人々は唱っていたのでした。この様に長屋は火事に頻繁にあうことからさほど重視されておらず簡素化されていたのでした。風呂は一般的には銭湯が主流でトイレも厠と言い共同便所でした。江戸農民の長屋は町民と比較すると違ってきました。大名達が地主に畑や土地を貸して地主がそこに長屋を建てて小作人達がそこに住み畑で収穫したものを年貢として納めて家賃変わりにしていました。この様に厳しい税負担飢饉などにより貧しい農民が都市部に流入してきて江戸中期ともなると人口が増え始めたのでした。町人も同じく地主に家賃を支払いそれが幕府に入るいわば税金の様な仕組みでしょう。この長屋には表長屋と裏長屋が存在しており小商人が表通りに面して建てられた長屋に住んで路地裏に建てられた裏長屋には江戸に流入した職人や貧しい農民達が暮らしていました。ここから日本における家主と店子の関係が始まり借家経営の原点と言えるでしょう。
長屋の構造
表長屋には裕福な小商人が居住している事から比較的日当たりも良く間取りも広く8畳と4畳の部屋に土間がありそこで荒物売りや小間物売り等の商売をして生計をたてている住人も多かったようです。それに比べて裏路地に建てられた裏長屋には割長屋が主流で部屋は6畳一間と梯子をかけた中二階や土間がありました。棟と垂直方向に部屋が仕切ってある棟割長屋があり屋根の棟の下に壁を作って背中合わせに部屋を設けた平屋建ての9尺2間と現在でいうと6畳一間というかなり狭い空間であったようです。居間が4畳位で土間が1畳半ほどで日当たりや風通しも悪く表長屋と比べると環境が悪かった様に思われます。家賃も現在にすると一万円位だったそうです。